Apple社の現在に至るまでの歴史の前編です。
1. 創業の始まりと初期の挑戦
スティーブ・ジョブズとスティーブ・ウォズニアックの出会い
1971年の夏にスティーブ・ジョブズ(当時16歳)とスティーブ・ウォズニアック(当時21歳)は共通の友人であり、後にApple Computerの最初の従業員となるビル・フェルナンデスの紹介で知り合うことになりました。
そしてウォズニアックは電話回線をハッキングして無料で電話がかけられる「ブルーボックス」を自作し、それをジョブズが学生などを相手にそれを売る行為をしていました。
この自作のブルーボックスは100台近くを売り売上は1万ドルにもなったそうですが、ある時にギャングに脅迫され、ブルーボックスを売ることを辞めることになります。
しかしこれが今後のApple創業のきっかけとなり、「ブルーボックスがなければ、その後のAppleも存在しなかったでしょう」とジョブズは語っています。
Apple Computer Companyの設立
その後、ジョブズはリード大学に入りましたが中退してゲーム会社のアタリに、ウォズニアックはカリフォルニア大学バークレー校を中退してヒューレット・パッカードに入社していました。
そしてジョブズはウォズニアックを自分の職場に入れて自社のアタリのゲームを無料で遊ばせる代わりに仕事を手伝ってもらうなど交流は続いていました。
そして1976年にウォズニアックはのちに「Apple I」となるMOS 6502プロセッサを搭載、テレビを外部ディスプレイにして、キーボードをつなぐことができる自作のマイクロコンピュータを完成させました。
ウォズニアックは当初Apple Iの回路図を無料で配布しようとしていましたが、ジョブズはこれをビジネスチャンスとして組み立てに必要なプリント配線板を製造販売するビジネスとして考え、ヒューレット・パッカードに売り込みにいきますが、相手にされずジョブズとウォズニアックは2人で会社を設立することになります。
そして1976年4月1日、ジョブズとウォズニアックとアタリで働いてたロナルド・ウェインの3人は、「Apple Computer Company(アップルコンピュータ・カンパニー)」を設立します。
Apple Iの発売
ジョブズはデモンストレーションを行ったり工面しつつ、Apple Iは1976年7月に666.66ドルで発売、最終的に合計で200台ほど販売されることになります。
2.Apple IIの成功と法人化へ
Apple IIの開発
Apple Iで利益を得たジョブズはさらなる事業拡大のため、個人投資家のマイク・マークラを引き入れ、さらにバンク・オブ・アメリカから25万ドルの信用供与を確保します。
そして1977年1月3日に法人化され、「Apple Computer, Inc.」が誕生します。
この時ウォズニアックはまだヒューレット・パッカードの社員でしたが、マイク・マークラの参加条件が、ウォズニアックのAppleへの仕事の専念が条件だったため、ウォズニアックはヒューレット・パッカードを退職することになります。
アップルは新たなプロジェクト、Apple IIの開発に着手しました。
Apple IIはApple Iの経験を活かして、1977年4月16日に発表されます。
ユーザーフレンドリーなアプローチ
Apple IIは、Apple Iのむき出しの基板だったのとは違い、筐体の中に基板やキーボード、電源装置が収められていて外部ディスプレイを接続すればすぐにコンピュータとして利用できました。
また、カラー表示することもできたのも大きな特長で、その使いやすさで注目を集めました。初めてのパーソナルコンピュータとして、教育機関やビジネス市場にも積極的に導入され、パーソナルコンピュータの普及に大きく貢献しました。
さらに専用外付けフロッピーディスクドライブ「Disk II」や表計算ソフト「VisiCalc」が大ヒットとなると個人向けでだけでなく、企業用コンピュータとしての需要も増え、マイクロコンピュータ市場におけるApple製品のシェアは大きく成長することになります。
業界への影響
Apple IIの成功は、アップルをパーソナルコンピュータ業界の主要プレイヤーに押し上げました。この製品は、その後の多くのパーソナルコンピュータのデザインと機能に影響を与え、コンピュータ業界全体に革命を起こしました。
Apple IIは、アップルにとって最初の大きな成功であり、スティーブ・ジョブズとスティーブ・ウォズニアックのコンビの強さを示しました。この成功は、アップルの成長と革新の旅の重要な一歩であり、今日のテクノロジー業界におけるその地位を確固たるものにしました。
そして1980年12月12日、Apple Computerは新規株式公開 (IPO) を行い上場することになります。
Apple IIIの失敗
Appleは上場前の1980年5月にビジネス向けに特化して設計された「Apple III」を発売し、商用コンピュータのIBMの市場に仕掛けましたが高い価格設定とハードウェアの欠陥によるリコールにより、失敗。
逆にIBMがパーソナルコンピュータ市場へ参入し、市場シェアを伸ばすことになります。
3.マッキントッシュの誕生と市場への影響
Lisaの開発
1979年にジョブズはゼロックスのパロアルト研究所 (PARC) を見学しそこに先進的なGUIの環境に衝撃を受けたジョブズはGUIを実装したビジネス向けPC「Lisa(リサ)」の開発を進めることになります。
しかしLisaの開発はジョブズのこだわりのゆえに当時社長だったスコットの判断でジョブズはLisaの開発チームから外されることになります。
しかしジョブズとの対立によってマークラからの支持も失い、スコットは社長を辞任することになり、スコットに代わる経営者として、ジョブズがペプシコーラからジョン・スカリーを引き抜き、スカリーはCEOとなりますが引き抜く時に「このまま君は一生、砂糖水を売り続ける気なのか?世界を変えるチャンスに賭けてみる気はないのか?」という言葉は有名なフレーズとなっています。
そして1983年1月にようやくLisaは発売されることになりますが、価格は9,995ドルと高く、革新的な機能を備えつつもビジネスとしては失敗に終わることになります。
革新的なユーザーインターフェースを備えたマッキントッシュの登場
1984年に発売されたマッキントッシュは、グラフィカルユーザーインターフェース(GUI)を採用していました。これは当時の他の多くのコンピュータにはない特徴であり、マウスを使って画面上のアイコンを操作することができました。
この直感的な操作方法は、パーソナルコンピュータの使い方を根本から変えました。
マーケティングと市場への影響
マッキントッシュの発売は、大々的なマーケティングキャンペーンによってサポートされました。最も有名なのは、1984年のスーパーボウル中継で放映されたテレビCMでした。この斬新な広告は、マッキントッシュの名を一躍有名にし、多くの注目を集めました。
業界への長期的な影響
マッキントッシュは初期の売り上げで苦戦しましたが、その革新的な特徴は業界に長期的な影響を与えました。GUIは後に他の多くのシステムで標準となり、パーソナルコンピュータの開発に新たな方向性を示しました。
マッキントッシュの誕生は、アップルだけでなく、コンピュータ業界全体にとって重要なマイルストーンでした。その革新的なインターフェースとマーケティング戦略は、今日のテクノロジー業界におけるアップルの地位を形作るのに重要な役割を果たしました。
4. 困難な時代とスティーブ・ジョブズの退社
アップルの困難な時期
1980年代半ばから後半にかけて、アップルはいくつかの困難に直面しました。マッキントッシュの初期の売り上げは期待に達しなかったこと、競合他社の台頭、および市場の変化が、アップルの業績に影響を与えました。この時期、アップルは経営戦略を巡る内部の対立にも直面していました。
スティーブ・ジョブズの退社
1985年、内部対立の結果として、スティーブ・ジョブズはアップルを去ることになりました。
この出来事は、アップルにとって大きな転換点となり、ジョブズのビジョンとリーダーシップの欠如が短期的に同社に影響を与えることとなりました。
アップルの方向性の変化
ジョブズの退社後、アップルは製品ラインの見直しや市場戦略の変更を行いました。
この時期、アップルはいくつかの新製品を発表しましたが、それらは市場での大きな成功には繋がりませんでした。会社は安定を見いだすことに苦労し、ジョブズの創造性と革新性が欠けていることが明らかになりました。
スティーブ・ジョブズの影響
ジョブズの退社は、彼のアップルにおける役割と影響の大きさを浮き彫りにしました。彼のビジョンとリーダーシップがアップルの初期の成功に不可欠であったことが、その不在によって強調されることになります。
この困難な時期は、アップルにとって重要な教訓と成長の機会を提供しました。ジョブズの退社とその後の出来事は、後の彼の復帰とアップルの再興に向けた舞台を設定することとなります。